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原動力とその芽生え

チャリティ

マイケルのチャリティの原動力とその芽生え
 マイケルのチャリティへの情熱は並々ならぬものだった。

 歌やプロモーションビデオ(ショート・フィルム)において世界の貧困や差別問題をとりあげ、それを変える人間になろう、と熱心に訴えた。スピーチでも、親子の温かいきずなを取り戻し、そのことを通してより平和な世界を築こう、と語る。
 行動をみると、生涯で寄付した金額は、数百億円ともいわれる。20代の頃からコンサートに恵まれない子供達を招待し、ツアー中も各地で頻繁に病院や孤児院を訪れ、プレゼントをしたり一緒に遊んだりする。また90年代初めには自らHeal TRhe World基金を立ち上げ、デンジャラスツアーの収益を全額寄付するなど、世界の子供たちの福祉向上を絶え間なく推進してきた。マイケルに個人的に治療費を肩代わりしてもらい、命を取り留めた人が、現実に世界には何人もいる

 こうした情熱の源としては、色々な要素が考えられるだろう。ここでは、そのうち2つを考察し、また、チャリティへの思いがプライベートな会話の中に語られた資料から、その情熱が早くから芽生えていたことを検証する。

1 救えなかった子供達

 マイケルの元には、若い頃から、不治の病の子供達が、「死ぬ前に一目会わせて」と言って何人も訪れてきた。その度に彼は、その子をはげますが、子供達は結局、亡くなってしまう運命だった。マイケルの心の中には、マイケルに会えてよろこぶ、やつれた病気の子供の面影が焼き付いてしまっていたのではないだろうか。

 あなたなら、多感な青年期に、「会えてよかった」と言いながら死んでいく幼い子供を何人も目にして、何もしないでいられるだろうか?救えなかったという罪悪感。自分は何ができるだろう、という心のうずき。それらが、マイケルのチャリティの、切実な原動力の一つになったのではないだろうか。

 実例として2つのケースを挙げる。

(1)マイケルが救えなかった子供1(1987年 カンザスの10歳の少年)マイケル29歳の時
(オックスフォード大学におけるマイケルのスピーチ音声データを聞き取り、和訳)

 「...皆さん、人間の認識の土台、意識の始まりは、自分が愛の対象であると感じることでなくてはなりません。自分の髪が赤いとか茶色いとか以前に、肌が黒いか白いか分かる以前に、どんな宗教に属するのか知る前に、愛されているということを実感できなくてはならないのです。

 
12年前、バッドツアーの開始直前のこと、カリフォルニアの自宅に、ある少年とその両親が訪ねてきました。ガンで死期の近い少年でした。彼は私の音楽や私のことが大好きだと打ち明けてくれました。少年がすぐにでも天に召されるかもしれない、ということをご両親から聞き、私は彼に言いました。

「ねえ、3ヶ月後に、君の住んでいるカンザスの町でコンサートをするんだ。見に来てほしいんだ。さあ、ビデオで着たこのジャケットをあげる。」

 少年は目を輝かせて言いました。「僕にくれるの?」私は答えました。「そうだよ。でもこれをコンサートに着てくるって約束して!」私は少年を何とか持ちこたえさせようとしていたのです。「コンサートには、このジャケットを着て、この手袋をはめてくるんだよ、いいね?」と言って、普通は決してあげないことにしている、ラインストーンの手袋を渡したのです。彼は喜んで天にも昇るようなそぶりでした。

 でも、少し天に近すぎたのでしょう。私がカンザスを訪れたとき、彼はすでに息を引き取っていました。彼は手袋とジャケットを身につけて葬られたそうです。わずか10歳の命でした

 彼が精一杯生き伸びようとしたことは疑いもありません。でも、少なくとも、息を引き取る時、ご両親だけでなく、ほとんど他人の私からさえ愛されたということを知っていた、とはいえるでしょう。私も彼を愛していたのです。こうした愛のもと、彼は自分がこの世にひとりぼっちで生まれ、一人ぼっちで死んでいくわけではない、と思えたでしょう。

 愛されている実感をもってこの世に生を受け、愛されている実感をもってこの世を去るなら、その間の人生における出来事は何であれ、乗り越えて行けるものです。...」(マイケル・ジャクソン)

(2)マイケルが救えなかった子供2(1984年 デイヴィッド少年 14歳)マイケル25歳の時
(雑誌People Extra84年p34より考察の参照資料として和訳して引用)

 
デイヴィッド・Smithee14歳の最大の望みは、マイケル・ジャクソンに会うことだった。彼に残された時間は長くなかった。嚢胞性線維症であとわずかの命だったのである。
 昨4月、少年の願いはついにかなえられた。死を間近にした子供達の願いをかなえる活動を行っているグループをとおして、話を聞いたマイケルは、デイヴィッドをエンシノにあるジャクソン家へ招待したのである。
 
 4月9日午後2時、カレン・Smithee(母)は、一人息子を連れて、ファンが群がるエンシノの家の門をくぐった。、、、マイケルは彼らをリビングで出迎えた。、、、マイケルは少年にキッチンでランチをごちそうすると、裏庭に連れ出して羊のミスター・ティブスとラマのルイに会わせた。スタッフに、デイヴィッドをビデオインタビューさせたりもした。「マイケルは、デイヴィッドをまるでスターになったみたいな気分にさせてくれたのよ。」とカレンは語る。マイケルとデイヴィッドはビデオゲームに興じたり、シアターで映画を見たりして過ごす。「うちの子はそこに座って、マイケルのジャケットを着せてもらって、生涯で一番幸せそうにしていたんですよ」とカレン。

 マイケルはデイヴィッドに、ビート・イットのビデオ撮影に使った赤い革ジャケットと、アメリカン・ミュージック・アウォードでつけた黒いキラキラ手袋をプレゼントする。デイヴィッドは得意そうに「マイケルはね、この手袋には魔法の力があるから、他の人にはつけさせちゃだめだって言ったんだよ!」と母に語ったという。

 それから7週間後、デイヴィッドはこの世を去る。7月にカレンは、ジャクソンズの出したCDヴィクトリー・アルバムの献辞に「このアルバムを、母キャサリン、故マーヴィン・ゲイ、そしてデイヴィッドに捧げる」と書かれているのを知った。
(引用終わり)

 マイケルの場合、「お願いだから会わせて」と殺到する何百万のファンレターにこたえるのは、土台無理な話である。だが、それが「子供のいまわの願い」となれば、NOという気持ちになるのは難しい。そのため、マイケルは沢山の「辛い境遇の子供」と次々に会う運命だった。現代アメリカでも日本でも、大抵の人にとって、「死」は親族や友人など、限られた範囲でしか接しないものだろう。しかし、上記の2例のように、マイケルの場合はその人気のゆえに、若い頃から、「会えてよかった」といって去っていく幼い命を、いくつも目にしなければならなかったのである。同じ状況にあなたがあったら、「僕にはお金もある、舞台もある、マイクもある。それなのに、あの子供達を助けるためにお金と声を使わないとしたら、僕とはいったい何だろうか?」と感じ、マイケル同様に、チャリティに身を投じるのではないだろうか。

2 失われた少年時代
 オックスフォード大のスピーチの他の部分や、各種インタビューを聞くと、マイケルは自分自身が子供時代をリハーサルやライブ、レコーディングなどの仕事に追われて過ごしたため、「他の子供達には、愛を感じながら無心に遊べる、幸せな一時期としての子供時代を与えよう」と決意していたことが分かる。その動機は、彼自身の心の痛みや存在と表裏一体の、切実で繊細で純粋な物だった。バッドツアーで日本に滞在中、ヨシアキ君の悲劇を聞いたマイケルが、彼の遺族に歌をささげ、寄付をしたのも、「そうでもしなければいられない」繊細なマイケルの心のしわざだったのではないかと思われる。

3 チャリティへの情熱はいつから
 敬虔なキリスト教一派の母の影響、そして持って生まれた感受性の鋭さもあり、「他人に優しく」という教えは子供時代からマイケルの心に浸透していたようだ。まだ20代前半、マイケルのお抱え写真家としてツアーに同行し、移動バスの話し相手になっていたトッド・グレイは、道中、マイケルからこんな話をされたのを回想している。(「Michael Jackson, Before He Was King」トッド・グレイ著より考察のための参照的引用として和訳)

 「子供っていうのは誰もみな、美しさを持っているよね。どこの地域の子供、ということ関係なしに、どの子でも美しい。僕は、世界中のあちこちの子供達について、本を書けたらいいのにと思うよ。色んな国に行って、この地球上の誰もがどれだけ美しいか、皆に見せてあげたいんだ。例えばインドに行って、貧困や苦しみにあえぐ子供達の現状を示したら、状況を改善する手伝いができるかもしれない。アフリカにしてもそうだよ。あちこちで飢餓や病気がはびこっているんだ。Todd、僕と一緒にこの仕事をしてくれないかい?」

 トッドは驚きながらも「やってみたいな」と返事し、マイケルにLewis Hineというフォト・ジャーナリストの本を読むように勧める。Lewis Hineは、児童労働制限法令の導入に影響を与えた写真家。マイケルはHineの写真を見ると、トッドに「君はこういう写真こそ撮るべきだよ」と勧め、さらに「本当に悲しくて、心がかき乱されるよ。こういうのを見ると僕は泣きたくなってしまうんだ、、」と漏らしたという。

 マイケルの多忙さから、子供の窮状を啓蒙する写真集の企画はついに実現しなかった。しかし、彼の「世界の子供を助けたい」という夢は、後にWe Are The World共同作詞作曲という形で実を結び、Heal The World基金などの形で発展していく。

 マイケルは「やるなら最大限の努力」をすると自他ともに認める性格なので、パフォーマンスのみならず消費行動もチャリティも、することなすことすべてケタはずれなところがあったせいか、世間では、「なぜ彼はそんなに子供を救いたがるの?」とささやかれ、それが後年のお金目当ての訴訟の背景になってしまったわけだが、こうして検証してみると、彼が子供に目を向けたチャリティを推進したのは、当然の成り行き、いってみれば運命だったようにさえ思える。


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