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知人の言葉集①
(ジャクリーヌ・オナシス
フレッド・アステア
サミー・デイヴィスJr
ロナルド・レーガン
エリザベス・テイラー
ニール・シャイコフ
トッド・グレイ
ブルース・スウェディェン


以下は工事中です

知人の言葉集②

知人の言葉集③

知人の言葉集④

知人の言葉集⑤

知人の言葉
各界の知人の言葉から読み解くマイケル①

プロデューサー・クインシー・ジョーンズ、ケニー・オルテガ、マイケル・ピータース、ジョン・ランディス、マーティン・スコセッシ、スティーヴン・スピルバーグ、監督スティーヴン・キング、スタン・リー、その他ダンサー、シンガーらの言葉を、少しずつアップしていく予定です。
ジャクリーヌ・ケネディ・オナシス(ファーストレディ)(マイケルの自伝を編集し、下記の前書きを寄せる)

「マイケル・ジャクソンとは?世界で最も広く知られたエンターテイナーの一人・革新的でどきどきするような作詞家です。そして、その踊りは重力をあざむき、フレッド・アステアやジーン・ケリーといった人々の再来といわれます。

彼がどれほど自分の作品に精魂傾けているか、ということはあまり知られていません。彼は休みなく仕事に打ち込み、より優れたものを作り出そうとし、常に自分の限界に挑む完璧主義者です。

 多くの人はマイケル・ジャクソンはとらえどころのない人だと思っているようでが、彼と仕事をする者にとってはそんなことはありません。この才能あふれるアーティストは、繊細温かく面白く、そして洞察力にあふれた人物なのです

 マイケルの本、ムーンウォークでは、この芸術家の驚くべき仕事の過程や考察を垣間見ることができます」

(考察:マイケル・ジャクソンは自他共に認める本好きであった。21歳の頃には既に図書館の読書推進運動を立ち上げ、2001年のオックスフォード大での講演でも、子供への読み聞かせの重要性を説いている。
 だから、ジャッキーが自伝の話を持ちかけてくると、すぐに「自分の言葉で本を出す」ということに興味を持った。勝手に編集されるマスコミの情報にうんざりしていたことも一因だったろう。
 イベント、ミュージシャンや演出との打ち合わせ、契約、レコーディング、撮影、インタビュー、振り付け、ボイストレーニング、作曲など、多忙なスケジュールの中、
少しずつ語られていったその自伝は、生い立ちとともに随所に
完璧主義的な芸術への追求、音と踊りの関係についての洞察、音楽を通じて世界に調和をもたらすという夢が語られ、彼が終生、心の中心に持ち続けていた精神、マイケル色が息づいている。
 ジャッキーの前書きは、マイケルの最大の親友のエリザベス・テイラーの発言とも驚くほど重なる点が多く、彼女自身もいかに洞察にあふれていたかを思わせるものである。なお、マイケルはビバリーヒルズでのパーティで、ケネディ大統領とジャッキーの娘で自分より1歳年上のキャロラインと出会い、週刊誌で騒がれたこともある他、あの、JFKジュニアが飛行機事故で亡くなったことで有名な99年のケネディ家の結婚式にもゲストとして呼ばれており、ケネディ家と交点接点を持っていた)

フレッド・アステア
(マイケルのステージを見て電話してきて以来のつきあい。マイケルは自伝『Moonwalk』をフレッド・アステアに捧げている。)

 「マイケルはすごいダンサーだよ!ああいう動きを全部自分で編み出して、それが見ていて最高なんだからな。あいつは徹底した芸術家だよ。彼は寝ても覚めても自分の作品のことを考えてるんだ。」


 「お前はすご腕だね。昨夜は皆度肝を抜かれたよ。怒れるダンサーだね。私もだ。同じことを私は杖でやったがね。あのショーは録画して今朝も見たよ。恐ろしいダンサーだね」

(背景:フレッド・アステアは子供時代からマイケルの憧れの的だった。マイケルは77年19歳の頃、毎週のテレビショーで、タップダンサーと共演したり、様々な劇を演じているが、そこでも、アステアに敬意を表し、彼のPuttin’ On the Rizを演じたことがある。
 83年のショーで、マイケルはBIllie Jeanにあわせムーンウォークを含む強烈なパフォーマンスを披露、4700万人のテレビ視聴者を熱狂させた。TV放映翌日には、まだ1,2回しか会ったことのなかったアステアから、マイケルに上記のような電話がかかってくる。

 マイケルはこの放映でエミー賞の候補となりながら受賞を逃したが、それは気にしない、と言い「彼の賛辞は、生涯で最高のもので、僕が信じたいと思うたった一つの賛辞でもある。フレッド・アステアがあんな忘れられない言葉をかけてくれるなんて、それこそが最大の賞だった」と自伝で述べている (翌84年マイケルはグラミー賞8部門を独占するのだが、、、)
 後日、マイケルはアステアの家に招かれ、乞われるままにマイケルのショーでのステップを再現したという。)


サミー・デイヴィス・ジュニア
 「マイケルは、おなじみのステップから別の動きへとサッと切り替えて、それが誰にも認識できないような速さなんだよ。腰を振るなんて新しくもないけど、でも彼がそれを目にもとまらぬ速さでやったり、ハイキックや、例の後ろへのステップをやったりすると、皆ついていけなくて<うわぁ、何やってるんだろう?>なんて言うのさ。彼は皆がわかるぐらいゆっくりなんて動かないからね。彼がヌレイエフやバリシニコフと一緒に仕事をしていたら彼ら同様のレベルに達していたと思うね。彼がタップダンスができるかって?さあね。でも、、、僕はヤツの近くに自分のダンスシューズを置きっぱなしになんて絶対にしたくないね!」


(背景:サミー・デイビスJrもマイケルの小さいころからの憧れの人で、後年親しく交流し、ムーンウォーク初披露の時のジャケットを献上、誕生日に歌を捧げたりしている。クインシー・ジョーンズとマイケルの初めての出会いも、マイケルが子供の頃、サミー・デイヴィス・ジュニアの邸宅においてだった。

◆ロナルド・レーガン(元大統領)
暴力反対のメッセージを持つ曲Beat Itは飲酒運動撲滅運動のキャンペーンに使用され、
1984
年に飲酒運転撲滅運動の特別功労賞が贈られた、その盾に記された文面が下記)
(当時からマイケルは酒、タバコ、女性スキャンダルと無縁で、若者のお手本と称賛されてきていた)

 「マイケル・ジャクソン氏へ、アメリカと世界の若者に素晴らしいモデルを示したことに感謝して(これを贈ります。)あなたの歴史的、記録的な実績とポップ・ミュージック界での地位は、あなたの創造性、芸術への献身、そして素晴らしい能力を証明するものです。あなたが時間と才能を飲酒運転撲滅運動に割いてくれたお陰で、多くのアメリカの若者が”飲酒運転は友情をだめにしてしまうものだ”ということを学ぶでしょう。」

(マイケルがコマーシャル撮影中、演出の火花が燃え移って火傷を負った折もレーガン大統領は即声明を発表。

 「マイケルへ、事故が大事に至らなくてなくてよかった。経験からいうけれど、セットではどんなに注意していてもこういうことがおこるんだ。アメリカ中で、たくさんの人が君のことをお手本として尊敬している。君が神の言葉を深く信じ、伝統的価値観を大切にしていることは、私たち、とりわけ信じるべきものを模索中の若者にとって素晴らしい影響を持っている。ファンが待ちわびているよ、だって君に戻ってきてほしいんだから(I Want You Back)。ナンシーも僕もそう思っている。これからも活躍を祈っているよ。ひどいことにならなくて本当によかった-ロナルド・レーガン」

(考察:マイケルの若者への影響力、クリーンなイメージが想起されるメッセージである。当時、レーガン政権がマイケルを称賛したのは、融和的イメージを強調する政治戦略の意図も当然あったことと思われるが、実はナンシー・レーガンは09年のマイケルの死に際しても、彼の功績を温かく称える声明を発表しており、実際に話を交わした人間としてナンシーがマイケルの人柄を愛していた様子がうかがえる)  

エリザベス・テイラー(お互いに認める大親友。イベントや詩集で下記のようにマイケルを紹介)

 「マイケル・ジャクソンという名前を聞くと、私は輝き、まばゆい星、あたりを射る光、そして深い感情を思い浮かべます。マイケルは素晴らしい人です。彼は世界で最も秀でたスターであり、史上もっとも才能ある音楽家の一人であると思っています。

 その上マイケルが特別なのは、これだけの実績、無数の賞にもかかわらず、彼が繊細なままで、他の人の幸せを気にかけ、家族や友人、とくに世界中の子供に対する熱心な気遣いと愛情を失っていないことです。

 マイケルはリトマス紙のようです。彼はいつも何か学びとろうとしています。彼はすごく知的で、ぎょっとするほど聡明です。いつも物事を知りたがり、時の試練を経て生き残った人々から知恵を得ようとしています。彼は本当に常人とは違う何かを持っています。彼の持っている深い情が、この世のものらしくないほど特別で、無垢で子供らしく、それでいて賢い、マイケルという人間を作り出しているのです。マイケルは私達みんなの中にある、内なる子供を引き付けるものを持っていると思います。そして、彼は、私達皆が手に入れたい、あるいは保ちたいと思うような純粋な性質を持っていると思います。

 彼は非常に鋭いウィットを持っています。そして、知性にあふれ、目端のきくところでもあります?この言葉を彼に使うのはおかしいですね、これはよこしまさを示唆する言葉で、マイケルは私が一生出会った中で一番よこしまさとかけ離れた人なのですから。彼はうそのつけない性格--痛々しいほど正直?で、ひどく攻撃に対して無防備でもあります。彼は自分の何もかもを与えようとした結果、自分のエッセンスである魂の中核の防御には何も残っていない、などということがあるのです。私は彼のそういうところが本当に好きです。また、このような性質のために、世界中の人々が彼と一体感を持てるのだと思います。

 マイケルは実のところ国際的にみて、あらゆる世代にわたって最も人気がある、驚くべきネルギーをもった信じがたい才能なのです。音楽という芸術において、彼はとても優れたエンターテインメントの基準を生み出す先駆者であり、彼がペースを決めているようなものです。天才とは?生身の伝説とは?メガスターとは?マイケル・ジャクソン、以上。彼のことを分かった、と思ったら、彼はさらに上の物を繰り出してくるのです。

 彼はこの地球上で一番素晴らしい人間の一人だと思っています。そして、私見では、彼はポップ、ロック、そしてソウル界の王です。」

ブルース・スウェディエン(79年~2007年までマイケルの音響エンジニアを務める。「IN THE STUDIO OF MICHAEL JACKSON」より考察のための参照として和訳して引用)

 「マイケル・ジャクソンは自分が仕事をしてきたアーティストの中で一番プロ意識が高くもっとも多くを達成した人間といえる。彼は国際的に最も人気のあるアーティストであり、しかもなんと長いことその地位にあることか!彼は明らかに時を経て生き残った本物である。マイケルは穏やかな人間でもある。そしてとても礼儀正しい。彼は仕事中いつも「please, thank you, you are welcome(お願いします、ありがとう、どういたしまして)を使う。この業界ではめったにお目にかかれない礼儀正しさである。

 誠心誠意言えるのだが、マイケルとは実に仕事がやりやすい。彼は非常に優れたアーティストである。例えば、ある歌のヴォーカルを録音するとする。その場合、マイケルは、マイクの前に立つ前に、ヴォーカル・コーチのセス・リグについて最低1時間は声の使い方を研究してくる。たまにそういうことをするというのではなくて、ヴォーカルをレコーディングするときは、必ずもれなく、これをやっている。私に言わせれば、これこそ本当に芸術に打ち込むということだろう。

 マイケルの一番素晴らしいところの一つは、自分の音楽に対する、尽きるところのない情熱である。彼が進行中のプロジェクトに注ぐ情熱たるや、他ではお目にかかったことがない。彼の音楽的要求水準は恐ろしく高い所に設定されており、彼と仕事をするときは、「いい」ぐらいの作品では決して通らないのである。デンジャラス・アルバム以来、私達はある言葉を合言葉にしている。「品質なくしてネームなし」つまり、音楽的・また音響的な品質について、完全に満足していなければ、自分たちの名前を付して発表などしない、というものだ。マイケルは一緒に仕事をしてきたアーティストの中でも最高のヴォーカリストであると同時に、音で色々な実験を試みるのが好きで、私の音響についてのアイディアをいつもサポートしてくれてもいる。、、、マイケルはバックコーラスなどを重ねて録音することにかけても驚くほど上手く、前に歌ったものとビブラートの周期までそっくりに歌って見せるのである!もちろん、マイケルの音感は素晴らしく、音程は完ぺきである。。、、、」

(背景:マイケルの作曲への情熱は、兄弟たちと家の手伝いをしながら曲の作り比べをした幼年時代にさかのぼる。本格的に作曲・プロデュースを意識したのは、モータウンレコードで、曲の制作過程を覗き見させてもらった時だろう。通常録音は、バックの楽器とは別に一人で歌って行うが、他の楽器のセッションやコーラスの録音も見せ、曲の解剖学(anatomy)を理解させてくれたモータウンレコードの創始者とスティーヴィー・ワンダーに、マイケルは終生感謝を捧げている。彼はいつも興味一杯でしげしげと何かを観察し、常に静かに周りから情報を吸収するタイプの少年だったのである)

ニール・シャイコフ(メトロポリタンオペラのテノール歌手)

 「打ち明けていうと、本当に羨ましいのはね、彼が人間がいまだかつてやったこともないような速さでぐるぐる回転しながら、上のドの音程をしっかり保てるような才能だよ。」

トッド・グレイ
(80年~ビート・イット撮影期までマイケル御用達写真家を務める。「MICHAEL JACKSON BEFORE HE WAS KING」より考察のための参照として和訳して引用)

 「マイケルは、(そんなに忙しい毎日を送っていたが、たまに)息抜きの時間が取れると、写真集をパラパラと読むのがお気に入りだった。彼はツアーの時、いつもお気に入りの本を何冊も持ってきていた。その上ツアー中にも、さらに本を買い込んでいくのだ。一つの街を後にするたびに、ツアーバスが乗せるマイケルの本の箱の数は増えていく。Triumphツアーがメンフィスで始まった時、本は1箱もなかったのに、数日後、ダラスに着く頃までには、2箱になっていた。次がヒューストンで、サン・アントニオに着くころには、大変な箱数がバスに積み込まれていた。、、、

 マイケルは、色々な地域からの子供達を載せた本にも興味を持っていた。バスでマイケルがこんな話をしたことがある。「子供っていうのは誰もみな、美しさを持っているよね。どこの地域の子供、ということ関係なしに、どの子でも美しい。僕は、世界中のあちこちの子供達について、本を書けたらいいのにと思うよ。色んな国に行って、この地球上の誰もがどれだけ美しいか、皆に見せてあげたいんだ。例えばインドに行って、貧困や苦しみにあえぐ子供達の現状を示したら、状況を改善する手伝いができるかもしれない。アフリカにしてもそうだよ。あちこちで飢餓や病気がはびこっているんだ。Todd、僕と一緒にこの仕事をしてくれないかい?」

 僕はびっくりした。マイケルがそんなことをする時間が取れる日がくるだろうか、と思ったせいでもあるし、その仕事で僕に写真を頼んできたことにも驚いたのだ。僕はそれから、「うん」と答えた。「いつかそういうプロジェクトを一緒にできたらいいな」と。それから僕は、マイケルにLewis Hineというフォト・ジャーナリストの本を読んでみるように、と勧めた。Lewis Hineは、その写真によって、20世紀初頭、子供の労働を制限する法令の導入に影響を与えた人物だ。マイケルは(勧めに従って)Hineの写真を見ると、僕に、「君はこういう写真こそ撮るべきだよ」と言ってきた。「本当に悲しくて、心が動かされるよね。こういうのを見ると泣きたくなってしまうんだ」と彼は言った。マイケルはその後も時々、世界の子供達を紹介する本の話を持ち出したけれど、時とともに立ち消えになってしまった。かなわなかった夢というわけだ。けれども、彼の(世界の子供を助けたいという)夢は別の形となって実現した。マイケルはWe Are The Worldを共同で作詞作曲し、この企画に参画したんだ。結果としてUSA for Africaは何百万ドルをチャリティ支援のために集めることができた。それは、いかにもマイケルらしいやり方だった----彼のやり方は、いつも気前がよくて、クリエイティブで、しかも先駆的なのだ


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